オーナーパティシエ一条のエピローグ
料理の道を志すことになった少年時代
幼いころから料理に夢中だった気がします。
見よう見まねで作ったハンバーグをほめられ、もっと美味しくしたいとあれこれ工夫を凝らすようになったのが料理に興味を持った第一歩。
それからは、コーヒーやケーキに興味を持ち、家にある材料で工夫して色々と作っていました。当時はケーキと言えば誕生日かクリスマスだけで、丸い発泡スチロールに入ったアイスケーキかバタークリームケーキ。それはそれで嬉しかったのですが、生クリームを使ったケーキはとても憧れを抱いていた事を今でも覚えています。

本格的に料理の道へ
料理への興味は10代になっても醒めることはなく、調理の学校へ進学。
1986年東京目白の椿山荘へ入社。調理部門には20名ほど新入社員が配属。コックコート姿にあこがれて希望に目を輝かせていましたが、実際はビニールエプロンとズボンと健康サンダルで来る日も来る日も洗い場での毎日でした。
夏は熱海のリゾートホテルへ出張し、ホテルの仕事を学び、銀座のレストラン銀座椿山荘(ステーキメインの店)では小店ならではのサービスや肉質・ソース・調理法などを学びました。
入社3年目椿山荘のベーカー課へと移動となり、パンとデザートを担当。
椿山荘は婚礼が主で週末は特に多く、披露宴で出されるパンとデザートは各宴会の進行状況で提供するタイミングがまちまちで時間との闘いでした。特に大変だったのは会場までの運搬。各部署が同時にエレベーターを使用するので、11階まで階段を使う事もしばしば。今思えば本当にすさまじかった!
その後、フォーシーズンホテルとの統合により異国の風土や技術等、外国人シェフと共に働く事により多くの事を習得する事ができました。

第二の故郷・長崎へ
1997年9月に一大決心をし、妻の実家である長崎の洋菓子店へ。
当時の屋号は「六本木クローバーでしたが法人化の際に「ネオクラシッククローバーへ改名し、昔を大切にしつつ新しいクローバーへとの思いを込め発進することに。食は地域により味のつけ方ひとつでも違ってきますから、自分がそこの地域に染まらないといけない覚悟が必要です。
その上で今まで培ってきたものと長崎の良さを生かし表現していく事が大事です。